太平洋戦争後の食料危機を脱し【吉田編集委員の収録後記】
戦後の食料危機を脱し、高度成長を迎えようとする日本で農業は大きな岐路に立っていました。食料が不足から過剰へと向かうことで収益性が下がり、工業や商業との所得格差が鮮明になったのです。
農林省(現農水省)はそんな状況を踏まえ、農業基本法を1961年に制定しました。他産業並みの所得を実現するのが目的で、いくつかの政策の柱を打ち立てました。その姿勢はいまでは考えられないほど明快でした。
柱の1つは「構造改善」。戦後の農地改革でできた零細な農業経営を改め、規模を大きくして生産性と収益性を向上させることを目指しました。都市への人口移動を踏まえ、少ない人数で経営を維持するという面もありました。
もう1つは「選択的拡大」。食生活の変化を見すえ、需要の拡大を見込める分野に政策と経営資源を集中し、所得の向上につなげるのが目的でした。畜産と酪農、果樹はその代表です。この路線はある程度成功しました。
でもこのとき、農政は2つの点でミスをしました。コメは当時から消費の減少が予想されていましたが、圧倒的な農家数を背景にした政治力を無視することができず、保護する方向へと向かっていきました。
加えて禍根を残したのが、せっかく畜産と酪農の拡大を見越していたのに、飼料は輸入に頼る決断をしたことです。じつは選択的拡大は、重要な貿易相手国が得意な作物は輸入することも含意していました。米国です。
その結果、コメを除く穀物、つまり小麦と大豆、トウモロコシを米国をはじめとする農業大国から輸入するという食料・農業構造が形づくられました。それが何を招いたかは、ウクライナ危機後の現実を見れば明らかでしょう。
今回のゲストの柳原孝二さんになぜ飼料用トウモロコシをつくり始めたのを聞くと、返ってきた答えは「連作障害を防ぐため」です。飼料の輸入依存の緩和という目標が具体化していたわけではありませんでした。
北海道長沼町の農家はコメの転作作物として麦や大豆をつくってきましたが、それだけでは連作障害が目立つようになっていました。トウモロコシの栽培は、品目を増やすことで障害が起きないようにするためだったのです。
事実上、ゼロからのスタートでした。ところがやってみると、思いのほか簡単にできることがわかりました。コメと比べると栽培にかかる時間が少なく、しかも収量はずっと多かったのです。仲間がどんどん増えていきました。
ここには重大な問題が潜んでいます。麦も大豆も本気で増産を目指してこなかったのに、「日本はコメ以外の穀物の生産に向いていない」と当然のように語られます。飼料用トウモロコシにいたってはなおさらです。
この思考停止を、柳原さんたちの取り組みが乗り越えました。「やればできる」。そう確信した農家が集まり、いまや「需要は青天井」。北海道だけでなく、本州でも栽培が可能なことがわかりつつあります。
日本にとってコメはいまも変わらず大切な作物です。でも日本は本来、「五穀豊穣の国」のはずです。トウモロコシをはじめ、多様な穀物の生産に官民を挙げて取り組むことが、食料安全保障の確保に貢献するのです。